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TEICが片手上級者とかを目指し日々続ける諸々を綴るブログ。
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未クリア☆11の数です('ω`)

EASYを抜くとまた4~6曲くらい増えるけどもとりあえず残り10曲。
ようやく☆11も一桁が見えてきたと言うことで、
そろそろ九段らしい実力が付いてきたかなと自惚r(ry

本当なら運指も大分充実してきてる頃合だろうに
自分は未だに薬北斗という状態な訳で・・・('A`)

地味に練習は続けてるんでたまに使ってたりはするけど
中々ニコ動とかに上がってる動画のようには行かないね。。。
CSのランダム指定でやり込むのがいいらしいから
今度CSができそうな時間が出来たらやってみよう(`・ω・´)



そういえば某大型掲示板の片手スレにて
成長するのに才能云々がどうとかいう話があがってたけど
自分の意見を言わせてもらうなら才能なんて関係ないでしょう(´・ω・`)

片手は特に、「できない」部分を改善するための練習をしないと
全くと言っていいほど何も変わらないプレイスタイルじゃないかと思う。
それで、「~くらいやってるけど未だに○段」って言う人は
多分自分がやらなきゃいけない事と、そのための練習ができてないんじゃないかと。

そこで今度は「練習が出来るのも才能」っていう意見が。。。

そこまで言っちゃう人なら多分寺に限らず何もできないような気が(;´Д`)
好きで弐寺をやってるなら自然と練習できるでしょうし、
中々上手くならない人も今の練習法をもう一度見直して
自分に合った方法を考え直してみるべきだと思うね。

偉そうな事を言ってるかと思うけど、
あんな流れのスレだと不毛すぎて見ていられないし
かといってここに書いたようなことを言ったら益々雰囲気が悪くなりそうだし。

なんであのスレってまともな流れにならないのかしら('A`)
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無題
何でもそうだと思うけど、人って自分と他人を比較したがるんだよね。
それは自分という存在を確立するのに必要な性癖だと思います。
しかしながら、比較対象者が自分より実力が上の存在なら、見かけ上の美しさ、成績や結果ばかりに目がいってしまう傾向にある気がします。
本来ならば、その対象者がその状態に至る過程を尊重し、その努力が自らの発展への足掛かり的肥やしになるように捉えるのが、根本的に人が成長していく中での良いリズムではないでしょうか。
圧倒的大差で形勢が決まってしまった場合、それを認めようとはせずに先天的な要因が全てと捉える様な価値観がその才能云々でしょうね。
もちろん才能という要因がまったく無関係かと問われれば否定はできないでしょう。
でも負けず嫌いな僕としては、才能という言葉を出す事自体がナンセンスだと思っています。
だって明らかに白旗を揚げて敗北を宣言したのと同じですからね!!
DELTA. 2008/08/04(Mon)17:41:56 編集
無題
片手は才能がないと高段者にはなれない
何事もすべて才能が第一。二に努力
TEICさんも才能があるからそこまでこれたんです。才能がなければそこまでうまくなれません
自覚してくださいね^^
774さん 2008/08/05(Tue)12:49:28 編集
無題
>>DELTA.さん
アイデンティティーの保持を無意識に考えてしまうんですかね。。。
他の人が上手く行ってるということを
真似してみようと考えるか、自分じゃ出来ないと諦めるか。
もし才能という物があるとしてもそれは意識の違いであって
それがあるないでどうにもできない差があるわけではないんですよね(´・ω・`)
>>負けず嫌い~
DELTA.さんの最近の目覚しい成長振りから考えても意識の高さが伺えますねw
このまま行けるとこまで突っ走っちゃってください(`・ω・´)

>>774さん
自分は才能があるとは思ってません。
あるとすれば弐寺でできないことができたときに楽しいと
人一倍感じられているのではないかと思っています。
もしそれも才能だと考えているのなら
貴方は弐寺が楽しくてやってるわけではないと思います。
そのままの意識では続けていても意味はないと思いますよ。
楽しくない遊びなんてやっていても無意味ですから、
少し寺から離れてみてはどうでしょう('ω`)
TEIC URL 2008/08/05(Tue)20:12:05 編集
無題
僕は冥,嘆きを攻略できる領域にはいないのでこのレベルのことに関しては判断出来ませんが,10段あるいは穴AAクリアでしたら十分努力の範囲で到達できると思います。ただし努力といってもただ単純にプレイ回数を稼ぐという意味での努力ではないですし,またその努力の質もおそらく多くの方々の想像を絶するものだと思います。

例えばある学生プレイヤーはとある曲をハードクリアするために譜面を携帯に記録して一日4時間イメトレとシャドウプレイを欠かしませんでした。またある別の学生プレイヤーは☆11以上の譜面を小節単位で分析しゲージの増え方などを含め詳細を研究ノートに記録し,譜面の特徴をほぼ全て暗譜していました。
さらにあるプレイヤーは全ての練習曲の平均BPの推移をExcelで管理し,同時に押せない配置と押せる配置を全て記録して詳細に自己批判を展開し練習計画を日々更新しています。

10段は努力で十分到達できます。しかしそのために要する努力は多くのプレイヤーの想像をはるかに越えていることも事実です。もしそれだけの努力が実行できる根性とモチベ,そして時間を作れること自体を才能とあえて呼ぶならば,あるいは高段位は才能の世界と言わなければいけないのかもしれません。

頑張ってください。
774? 2008/08/07(Thu)20:24:57 編集
無題
>>774?さん
わざわざ長文にて貴重な意見、どうもありがとうございます。

確かにある目標に至るまでに必要な努力ができるということ、
特に十段という高い位置にあるようなものまでモチベを保ちつつ練習を続けることは
ちょっとやそっとでできることではないでしょうね。
それをあえて才能、と呼ぶのなら才能の世界と言わざるを得ないでしょう。
高段位を取得している人の努力が想像を超えるものであればあるほど
自分自身との差を大きく感じてしまうのではいかと思います。

ですが私が片手スレで挙げられている「才能」という言葉に感じるのは
「努力することからの逃げ」であるようにしか思えないのです。
才能という言葉で上級者と自分を区切って努力することを諦めている。
または現在の自身の実力で妥協しているような、そんな風に感じられるのです。

勿論プレイスタイルや練習の方法は人それぞれです。
ですが「できない」が「できる」に変わったときの喜びは同じだと思います。
だからこそ、「~だからできる訳がない」などという言葉でまとめて
できるようにする努力から逃げてほしくないのです。

「できない」をできるようにしたい、と感じる事こそ何事にも必要なのではないでしょうか。

自分も長文をだらだらと書いてしまいました、スイマセン(´・ω・`)
スレの方にこの話題を持ち出すのは宜しくないと思い、書かせてもらいました。
どうもありがとうございました。
TEIC URL 2008/08/07(Thu)22:33:01 編集
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TEIC
性別:
男性
職業:
学生
趣味:
音ゲー・読書
自己紹介:
最近引退気味な弐寺er。メインはRP。時たまLPやDPを嗜む片手er。DJTにて念願の片手赤段位を入手。RAでついに十段になった。しかし半年練習放置してしまったため十段(笑)になっているので現在リハビリ中。

DJNAME 『5-RON』(RP・DP)
        『5-LON』(LP)

主にプレイする音ゲー
IIDX・その他音ゲーは嗜む程度
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最近は家寺中心。ACはたまにひょっこりやりにいく程度

宮城県人。今は上京して一人暮らし。
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